沖縄パワースポットツアー 東御廻り

琉球時代の聖地巡礼の旅に出かけよう。東御廻の旅

【東御廻り】読み方は【あがりうーまい】

琉球国王も巡礼していた聖地14ヶ所巡りをします。古来より、沖縄では太陽の昇る東方のことを゛あがり゛と呼び、そこは理想郷・二ライカナイのある聖なる方角であると考えられていました。

「東御廻り」とは、創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事。

その起源は琉球王国の国王の巡礼からきており、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始められたといいます。その霊地は全部で14箇所。その中には琉球王国の最高の聖地といわれた「斎場御嶽」も含まれます。

 

首里の園比屋武御嶽を出発し、与那原、佐敷の拝所を経て知念に入り、ティダ御川を拝んで、斎場御嶽に至ります。さらに知念グスク、知念大川、ヤハラヅカサ、受水走水などをまわり、玉城グスクまでという行程で計14の聖地を巡るツアーです。

最近では、心とからだを癒すための巡礼の旅や健康的なレクリエーションとして東御廻りをする方も増えています。

1.【園比屋武御嶽石門】(那覇市)

園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)は守礼門と首里城の正門にあたる歓会門の中間にあり、尚真(しょうしん)によって1519年に創建されました。

築造者は竹富島出身の西塘(にしとう)。

国王が首里城を出て各地を巡る際に道中の安全を祈願した拝所です。また琉球王府の最高位の神女の聞得大君(きこえおおぎみ)が斎場御嶽で即位式をおこなう際にもここで祈願したと伝えられています。

2.【御殿山】(与那原町)

 

名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置場に指定されたことによる。オモロ(奄美・琉球に伝わる古い歌謡)では「よなははま きこゑ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又 あきりくち とよむ大きみ やちよ」と謳われている。「球陽・遺老説伝」に「漂流の大君加那志」として由来がのっており、戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれています。

聞得大君の御新下りの際には最初の休憩地となり御仮屋が設けられた場所である。現在も町の行事「与那原大綱引き」が行われています。

3.【親川】(与那原町)

親川(うぇえがあ)。

天地開闢の昔、御殿山の天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産場を召したとの神話に発し、琉球王朝時代には国王の久高参詣(旧八月の神拝)の東廻や聞得大君の御新下りの際、「お水撫で」の儀式を行うなど、首里出発後、最初の拝所として、休憩の御用水を献じた所と伝えられる。「琉球国由来記」によると聞得大君の御新下り」の際の与那原の儀礼は親川の「お水撫で」が主役であることが分かる。「お水撫で」とは親川から汲んだ<お水ーウビー>を盛った器に中指を浸し、額を撫でる呪法で「孵で水=スディミジ(脱皮・再生の聖水の儀)」の儀式である。すなわち、天女やその子が浴びた親川で儀礼的に聖なる水を浴びることによって、天女の霊力を獲得(御新下り)する儀礼としての意味があった。琉歌にも「与那原の親川にあまくらがいちゃんあまくらやあらん思姉おすじ」と歌われた。澄みきって、冷たい水がこんこんと湧きでるこの石泉は人々の崇拝を集めた霊所である。

4.【馬天御嶽】(南城市)

琉球三山統一を果たした尚巴志(しょうはし)ゆかりの地。伊平屋島から佐敷に移り住んだその祖父・佐銘川大主(さめがわうふぬし)は、この場天御嶽に祀られている。

ここは、以前は上場天御嶽と下場天御嶽の2つの拝所であった。上場天御嶽は神名「サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ」。佐銘川大主はここに小屋を建てて、漁をして暮らしていたという。一方、下場天御嶽は神名「コハツカサノ御イベ」。佐銘川大主の息子・苗代大比屋(なーしるうふや)、すなわち後の尚巴志の父・尚思紹(しょうししょう)が生まれた場所だといわれている。イビ御嶽ほか6つの拝所が点在。東御廻りでこの地を拝するのは、王国と深く結びついた聖地としてはもちろん、先祖が使った御水に感謝するためとも語られている。

5.佐敷グスク(南城市)

ここには琉球三山統一を果たした尚思招(しょうししょう)、尚巴志(しょうはし)父子の居城跡がある。

三山統一の過程で、大里グスクを攻め取り、佐敷グスクより居を移し、さらに、中山城(ちゅうざんぐすく)を攻め滅ぼして移った際に城郭の石は全部首理城に運んだと伝えられ、沖縄の他のグスクにみられるような石積みの城壁などはまだ発見されてない。聖地は鳥居を山手に入った眺めのいい位置にあり、遠く久高島も拝める。尚巴志の500年祭を機に、佐銘川大主・尚思招・尚巴志・尚忠・尚思達・尚金福・尚泰久・尚徳の8体を合祀したつきしろの宮が建立された。命名は、第一尚氏王統の守護神「つきしろ」に由来。台地上の先端部に築かれていることから、別名「上グスク」とも呼ばれている。

6.テダ御川(南城市)

テダとは太陽を意味する言葉で、太陽神がここに降臨したと伝えられています。その昔、国王や聞得大君が久高島を参拝するときには、無事に船が航海できるようにと祝女(ノロ)たちがオモロ(奄美・琉球に伝わる古い歌謡)を謡い、航路安全を祈願したのだとか。ここへは知念崎(ちねんさき)の灯台を過ぎ、坂を下っていくと辿り着くが、テダ御川と記された石碑と説明板がなければ、かつては井泉であったことを想像するのはむずかしい。説明文によれば、昭和8年頃に背後の知名(ちな)グスクから採石したことが原因で、清水が枯れたという。しかし、目の前に真っ青な海が広がり、ほぼ真東の方向に久高島が見えるのは神聖な光景そのもの。東御廻りの聖地として、いまでも人々から崇められている。

7.斎場御嶽(南城市)

琉球開開闢七御嶽のひとつで、聞得大君の即位儀礼・御新下りが行われた世界遺産にも認定されている東御廻り最高の聖地です。

8.知念城跡(南城市)

  沖縄最古の歌謡集・おもろさうしにも「ちゑねんもりぐすく」と謡われた古いグスク。自然石を積んだ古城(くーぐすく)とアーチ門を備えた切石積みの新城(みーぐすく)の二つの郭からなっている。

古城は天孫氏(てんそんし)の時代に、新城は尚真王(しょうしんおう)の時代に築かれたという伝承がある。

城内には低い石垣で囲われた友利之嶽(とむいぬたき)があり、ここが東御廻りの聖地となっている。

城外には石畳道をはさんで古屋敷が点在し、知念按司(ちねんあじ)墓や知念ノロ屋敷跡も残る。知念グスクは中世から近代までの複雑な建築物が城内外で見られることが特徴で、最近の調査では、13~15世紀を中心とした土器・輸入陶磁器・銭貨・金属製品・骨類などの遺物が出土した。

9.知念大川(南城市)

知念グスクの裏門を出て、石畳の坂を下っていくと、知念大川(ちねんうっかー)がある。ここは昔、知念グスクに付随する井泉(かー)であったといわれる。

水源地は石灰岩の断崖の奥深くに位置。井泉の後ろにある「うふぁかる」には、琉球の創世神・アマミキヨが天から稲を持ち帰り、この地に初めて栽培したという伝説が残されている。

向かって正面の一段高くなったところが、拝所である殿(とぅん)。玉城(たまぐすく)の受水・送水(うきんじゅはいんじゅ)とともに、稲作発祥の地として伝えられる。

琉球国王は聞得大君を伴って巡礼され、現在でも沖縄全島から多くの参拝客が訪れるという。

10.【受水・走水】(南城市)

百名の海岸近く、うっそうとした緑の中でこんこんと湧き出る2つの泉。

おだやかに流れる西側の受水(うきんじゅ)の傍らには御穂田(みーふだ)と呼ばれる田が、速やかに流れる東側の走水(はいんじゅ)の前方には親田(うぇーだ)と呼ばれる田があり、これらが琉球における稲作発祥伝説の舞台となっている。

玉城仲村渠(なかんだかり)区に継承されている田植えの儀式・親田御願(うぇーだぬうがん)は、稲の始まりを神に感謝する行事。受水・走水に隣接する親田で田植えをし、近くの御祝毛(うゆえーもー)と呼ばれる広場で神事を執り行い、参加者全員でご馳走をいただくという。

市の無形民俗文化財にも指定され、旧暦で毎年その年の初午の日に催されている。

11.ヤハラヅカサ(南城市)

百名の浜川原にある拝所。琉球祖先神・アマミキヨがニライカナイ(海のはるか彼方にある神々の住む理想郷)から渡来し、久高島に降り立ち、次に本島に降り立った、その最初の地とのいわれがある。

ヤハラヅカサは琉球石灰岩でつくられた石碑で、石碑の下の部分にはいつの頃からか香炉が設けられている。満潮時には海中に没して見えなくなり、干潮時に全貌を現す。そのため干潮のときでなければ渡ることができず、間近で拝むことができない。アマミキヨはここヤハラヅカサから浜川御嶽を経てミントングスク、玉城グスク、知念グスクへと歩みを進めていったと伝えられている。

清らかな砂浜、おだやかな波の向こうには石碑が立ち、さらにその左手・東側には聖なる久高島も見える。

12.浜川御嶽(南城市)

百名ビーチ北端の崖上に鎮座している御嶽。浜川とは海辺の湧き水のことで、その泉がハマガー(浜川)という御嶽名になったといわれている。

ここは、ヤハラヅカサに降り立ったアマミキヨが仮住まいをした地。琉球の創世神は、この浜川の清水で旅の疲れを癒し、ミントングスクに移動したという。

うっそうと茂る古い樹木、清らかな水が流れる泉、岩山の下に設置された祀や香炉、そのどれもが聖地の神聖なる空気に満ちている。琉球国王や聞得大君も稲穂祭にこの地を行幸。

東御廻りの他、浜川拝み、浜川うびなでぃと称して沖縄各地から一年中参拝者が絶えない。

13.ミントングスク(南城市)

ヤハラヅカサに上陸したアマミキヨは、浜川御嶽に仮住まいをしていたが、やがて丘陵部へ進出。グスク(城)を築き、安住の地としてここに住み着いた。

そして、この地で子孫が繁栄して沖縄中に広がったと伝えられている。久高島開びゃく、稲の発祥、沖縄への豚の最初の輸入など、ミントンにまつわる伝説は実に多岐にわたる。

その一方で、グスク頂上付近の岩陰や小洞窟には神墓と称されている拝所があり、ここは古代より祭祀遺跡としても名高い。周辺部からは、石斧や沖縄貝塚時代中期土器片、貝殻が採集されている。

14.【玉城城跡】(南城市)

琉球創世神・アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつ。琉球国由来記によると、神名を「アガル御イベツレル御イベ」という。城内にはかつては琉球国王も参拝したといわれる天つぎあまつぎの御嶽があり、とくに干ばつの際は国王自ら雨乞いの儀式を行ったと記されている。

城は主郭・ニの郭・三の郭で構成されていたが、現在は根石を一部残すのみ。久高島や本島中南部が見渡せる高台にあるため、城門へと上る道の途中はかなり険しい。岩盤をくり抜いて作られた本丸門は、あがるい(東北東)に向けて口を開いており、ニライカナイ(琉球で伝承される海のはるか彼方の理想郷)に通じるとされている。

冬至と夏至の日には太陽の光がまっすぐと差し込み、息をのむほど幻想的な光景が広がる。

いかがだったでしょうか?以上、東御廻り14箇所巡り終了になります。